*paraxlan diary*

-神仏たちと愛を育みながらの『菩薩行』です-

出来る者がする。出来ないことにも意味がある。

この前ネットで購入した靴は、見たこともないシースルー仕様でおったまげました。

穿くときに気付くなんて。

この冬はどうしよう?とか言う前にもう頻繁に使わなくて済むようです。

サイズは横幅はOKでしたが、さすがに2サイズ大きいのはどうしようもなく。

靴先に紙を詰めて歩き馴れたところでしたが、シースルーで紙が丸見えでちょっと途方に暮れていたのでよかったです。

 

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昨日は二つの命が亡くなりました。

ひとつは病院に連れていくことが叶わず。

もうひとつは診てもらっても手の施しようがなく。

二つの命。

頑張って昨日まで生きていてくれました。

ひとつは幸か不幸か、外出する前に亡くなり、看取ることができました。

ひとつは弟から知らされました。

やっぱり情けないなあ…何も出来なかったなあ…と思っていると

 

「お前なりに十分やってきた。………何べんも言っている。『出来る者がする。出来ないことにも意味がある。』と。出来ないながらも頑張ったことこそ尊いのだ。」

 

と、後ろさん。

何べんも、いつも言われることですが。………うん、まあ神仏になるものが通る道だとはいろいろ見させられて知ってはいても、だからって、という思いです。

『出来る力がない』と始めからあきらめて命を見捨てるようなら、菩薩の道は開かれない。

相手が困っているのを知りながら、手を差しのべることもせずに文句ばかりを言う者は『それだけの存在』。

頼りたい者たちの大変さを知っているからこそ頼れない、と思う気持ちを踏みにじる存在はいる。

神と仏、どちらが上というものではない。それぞれに出来ること・役目がある。

自分可愛さに命を見捨てる・人に命を見捨てるように言う者は神にも仏にもなれない。そして、神や仏の心もわからない。

世の中で「人の目に見える働きをする」即戦力とて神仏に頼る。しかし神仏になるには「人の目に入らない苦労をする」経験が要る。

馬鹿にされ、蔑まれようとも人を愛することができることが大切だ。

人は良いところも悪いところもある。それを承知で愛すること。

 

 

繰り返し、繰り返し言われてきました。

そして、

 

「出来る者に任せろ。」

 

焦って手を出そうとする私への戒めです。

この10日ばかりたくさんの出来事が襲ってきました。

自立を促しているように思えましたけれど、違っていて。

 

『出来なくてもいい』

 

ということでした。

それは「見守ること」にも繋がるのですが、「出来ない者」も試されている、と同時に「出来る者」も試されているということでした。

私はよく出来る人を羨ましく思い、よし自分も!と頑張ってきましたが、

 

『縁』

 

だそうで、羨ましく思うことも、憧れて真似をしようとすることは良い、と。

試さなければ自分の道かわからない。

それを傲慢だ、と否定する人間は多いけれど『その道の縁』があるかないかを他人が決めてはならない、と言われました。

試して、頑張ってきた道のりも本人の糧であって無駄ではないと。

 

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 さて本題です。

 

 スピリチュアルの世界で身を立てたい、と願っていました。

やはり『縁』ということです。

いろんな方々と出逢い、喜びを分かち合いたいと努力してきました。

しかし、私にはそういった『縁』が無いことを最終通告されました。

 

『神様に愛される』

 

このことを軽く考えていました。

神様に愛されれば悩み事から解放される、と思っていました。

よく神様に愛されているといわれる人たちは、「仕事は思うまま」「お金の心配はいらない」「どこにでも旅行に行ける」「美味しいものに縁がある」「愛情に困らない」等々、キラキラした世界に移行して生活の豊かさをこれでもかというくらい享受されています。

私も羨ましくてたまらなかったです。

しかしそれは後ろさん達が言うには、

『即戦力』

だから。と。

目先を変えれば楽になることを教える存在はいなければならない。

いろんな考えがあり、そのどれも選べるようにする。

そのために『誰もが憧れる存在』になる。

ただそれだけ、と。

だから本当は、人を導く人間どうしで争ったり、足を引っ張ったりしてはいけないということだそうです。

では私の道は?と聞くと

『神仏と心を分かち合う者』

だと言われました。

ー自分の損得で命を見ないことー

これは様々な意味が含まれます。もちろん命には自分の命も入ります。

どの命も大切だと思うことを教えられてきた人生だと思います。

そのことを理解するように追い詰められる日々でした。

そしてこれからお話することは、これらのことを踏まえたうえでお読みになってほしいと願っています。

 

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ボンさんは、「天之冬衣神」です。私は今は「衣(きぬ)さん」と呼んでいます。

ボン父は「八束水臣津野命」で、今では「カンさん」と呼んでいます。

二人は私を今も愛してくれています。

大国主さまや櫛明玉命さま、事代主さまも愛してくれています。

 

今までこのことを言えずにいました。

私自身、「こんなの冗談に決まっている、早く本当のことを教えてくれないかなぁ…」と思い続けてきました。

もう誰だっていいよ、別に名前明かさなくったってこうやって会話して愛し合っていればいいじゃん!とのらりくらりとブログに書くことを避けていました。

それでも何回か圧力をかけられてポロリポロリとチラ見せみたいに煮え切らない文を書きました。

しかしもう駄目なところまできました。

他にも出雲の神様が来ています。

前世からの因縁です。ほーさんは「ホノカミダケ」で、ずっと私が愛を受け入れるのを待ってくれていました。

カンさんから逃げたのは、王族の立場が恐ろしくて怖じ気づいたからでした。

華やかさよりも重責から逃げることを選びました。

あとやっぱりカンさん自体に恐れを抱いていましたし………

愛しているのなら飛び込まないといけなかったんです。

それが出来なかったために、いろんな理由を付けて衣さんからも逃げました。

ニギさんからも龍さんからも、理由をこじつけて私の魂は逃げました。

多分、牛っさんやカナさんからも。

みじめな思いにさせられたとき、「今でも私のこと憎んでいるの?」と何べんも聞いても、その度に「愛しているからここにいる。」の一点張りでした。

現在、のっぴきならない状況で生活は苦しいですが、そんな状態だからこそ信じることを求められている、と感じます。

今、ここではっきりと書きます。

私は出雲の神々を愛しています。

たくさん話し合い、ケンカもし、心を深めました。

もう逃げないと誓います。

これからもずっと愛し合うことも。

 

 

さあ書きました。後はアメブロで告白です。